50周年式典に参加していたJapan Friendship Tour参加プレイヤーたちとの集合写真

アルティメット誕生50周年式典 アジア人で唯一参加したレジェンドに迫る

「1968年」と聞いて、アルティメットの誕生を連想したあなたは、相当なフライングディスクオタク、あるいはアルティメットオタクに違いない。2018年は、1968年に誕生したアルティメットが生まれて50年。節目の年であった。

そんな今年、アルティメット誕生50周年を祝う式典が行われていたことをご存知だろうか。2018年10月18日〜21日、全米選手権が開催されたカリフォルニア州サンディエゴには、アルティメット界のレジェンドが集まった。その中に一人、皆様もきっとご存知の日本人が参加していた。日本フライングディスク協会で理事を務める本田雅一氏だ。今回の式典は世界中のディスク関係者が集ったわけではなく、アメリカのアルティメットを愛するレジェンドたちが企画したものだという。そのため、各国の協会関係者が参加できるものではない。ではなぜ、本田氏が式典に招かれたのだろうか。

今回は本田氏がアルティメット誕生50周年式典に参加するに至った経緯を、ぜひ皆様に知っていただきたく、本田氏に話を伺った。そこには、アルティメットやフライングディスクを愛する人ならぜひ知っておいてほしい物語が存在する。

 

レジェンドが集結し、ディスクを楽しむ アルティメット誕生50周年式典

アルティメット誕生50周年式典は、10月19日(金)の夜、サンディエゴ ヒルトンホテルにて2018USAアルティメット殿堂入り表彰式に合わせて開催された。アメリカで殿堂入りを果たしている約60名が招待されたほか、彼らの知人が招かれた。

「WFDF会長のロバート・ローチ氏が登壇してスピーチをしたり、アルティメットの歴史をまとめた映像を上映したりと、とても楽しい雰囲気だったよ」と本田氏は語る。

 

WFDF会長 ロバート・ローチ氏のスピーチ

WFDF会長 ロバート・ローチ氏のスピーチ

 

アルティメットの歴史を振り返るスライド

会食は、アルティメットの歴史を振り返る映像やスライドで彩られた

 

式典があった金曜日の日中には、サンディエゴのビーチでアルティメットを楽しんだ。殿堂入りを果たしている過去のレジェンドプレイヤーとその家族が参加したビーチアルティメットだが、本田氏は、「昔は彼らのプレーに歯が立たなかったけど、今ではみんなだらしない身体になってしまった。今回のビーチでは、僕が一番いいプレーヤーだったかな(笑)」と語る。

 

ビーチアルティメットの様子

ビーチアルティメットの様子

 

ビーチアルティメットの集合写真

ビーチアルティメットの集合写真。レジェンドたちやその家族がアルティメットを楽しんだ

 

そして土曜日は、全米選手権決勝の前日。大会が行われている会場で試合を見学したほか、50周年式典パレードが開催された。レジェンドたちが昔の所属チームごとに分かれて、過去のユニフォームを着て行進。昔のチームを懐かしむとともに、レジェンドたちはさらに交流を深めた。

「殿堂入りしている人たちの中でもレジェンド中のレジェンドであるTKに、死ぬまでに会えたことが本当に良かった。」と語る本田氏。TKというのは、アルティメットの普及活動を世界中で行い、レジェンドプレーヤーたちからも彼こそがミスターアルティメットだと認められているトム・ケネディ氏。往年の名プレーヤーがサンディエゴに集結したこの週末は、のちにディスク界では語り継がれることになるかもしれない。そして日曜日に行われた全米選手権決勝。翌日から仕事を控えるレジェンドたちは、決勝戦前後に各自のタイミングで帰路についたという。

 

シカゴ ウィンディシティの元選手たち

シカゴ ウィンディシティの元選手たち。本田氏も彼らとともに、決勝前日のパレードに参加した

 

アルティメット普及を世界中で行なったレジェンド トム・ケネディ氏

アルティメット普及を世界中で行なったレジェンド トム・ケネディ氏。通称TK。殿堂入りしている人たちに「ミスターアルティメットといえば」と聞けば、みんながTKと答えるほどの偉大さだという。

本田氏だからこそ実現した式典参加

ではそもそもなぜ、今回の式典に本田氏が参加することになったのだろうか。この理由を説明するためには、本田氏がまだ大学生だった1980年代に時を戻さなければならない。

東京経済大学入学後にフライングディスクと出会った本田氏。1年生時は自動車レースに夢中。ディスクにはあまり熱を注いでいなかったという。しかし、自動車レースは金をかけたやつほどマシンの性能が上がり、結果が出やすい世界。その点が本田氏にとっては違和感だったそうだ。一方のフライングディスク。本田氏が初めての出場した全日本選手権で、チームは序盤に敗退してしまった。アルティメットの大会といえば、今でこそ大会途中で負けても、負けたチーム同士で試合をするため、大会中に退屈することはない。しかし当時は、敗退したらその時点で終了。

「1年生の時は早々に負けてしまって、同期とものすごく退屈してね。どうせやるなら勝ち上がりたいって思ったよ」

そして、本田氏とチームメイトは翌年の大会に向けて練習を積んだ。練習の甲斐もあって、翌年には全日本選手権優勝を果たした。しかし、これで終わりではない。

「東経大の先輩が『日本で優勝したんだから、アメリカのクラブチームの大会に出場しよう』と言い出してね。アメリカで行われるWDC(ワールドディスクチャンピオンシップス)に日本代表として出場する交渉をしてくれて、参加できることになった。自分たちでアメリカの大会関係者とコンタクトを取って、大会に出場したんだ。試合ではコテンパンにやられたけど、マイケル・グラスとアラン・ゴールデンバーグという人物と出会ったことが、全てのきっかけだった」

WDCに出場するためにアメリカに向かった東経大チームは、アメリカで最初に訪れたレストランの駐車場で、ディスクを投げていた2人の青年と出会った。それがマイケル・グラスとアラン・ゴールデンバーグ。彼らは大会に出場するためにシカゴから訪れていたが、宿泊先が決まっていないからと言って、その夜は東経大チームのホームスティ先に遊びに来てくれた。

「彼らは練習とかにも付き合ってくれたし、僕らの試合中にはアドバイスもしてくれた。最後にはディスクやTシャツを交換したりもしたね。マイケル達のチームは3位だったよ。一方の東経大は全敗。15点マッチの試合で、一番取れたのが5点くらい。それも相手が手加減をしてくれてその結果だった。」

そして帰国前、本田氏とマイケルは、当時着ていた東経大のウィンドブレーカーとマイケルが持つスウェットシャツを交換した。

「本当はチームで揃えていたやつだからあげたくなかったけど、チームメイトには失くしたことにして、マイケルに渡したんだ。マイケルは、後で日本に送ってくれると約束もしてくれた」

 

WDC参加時の貴重な写真

WDC参加時の貴重な写真。この時着用している黄色いウィンドブレーカーが人生を大きく左右することになる

 

東経大チームと対戦相手の記念写真

東経大チームと対戦相手の記念写真。写真右端に写っているのがマイケル、左端がアラン。試合の合間に東経大のことを気にかけてくれた

 

帰国後、東経大は日本で連覇を重ねた。しかしその間、本田氏は順風満帆ではなかった。大学3年の冬に父が病気で他界。鬱状態になり、チームの練習にも顔を出せなかった。そんなある日。東京では珍しく、20センチもの雪が積もったこの日、本田氏が住む家のポストに、アメリカからの郵便を知らせる不在票が入っていた。ハガキを手に、雪の中を郵便局まで走り、アメリカから届いた小包を受け取ると、中にはマイケルからのメッセージとウィンドブレーカー、そしてディスクが入っていたという。

「メッセージには、東経大も参加したWDCでは3位だったマイケルたちのチームが、その年の全米選手権で優勝を果たしたと書かれていたんだ。そして、マイケルから送られてきたディスクはその大会の記念ディスク。さらに、ウィンドブレーカーには、彼が所属するシカゴウィンディシティのロゴが入っていたよ。メッセージには『来年スイスで世界アルティメット選手権があるから、そこで会おうぜ』とも書かれていてね。父を亡くして落ち込んでいたけど、俺にはアルティメットがあるじゃないかと思って再起したんだ。その頃、JFDAから東経大に『スイスでのWFDF主催WUGC世界アルティメット&ガッツ選手権に日本代表として出場して欲しい』という打診があった。そこからはチームに戻って、翌年に向けて準備したよ。」

そしてスイスでのWFDF主催WUGC世界アルティメット&ガッツ選手権に出場した本田氏。スイスでマイケルと再開し、マッチアップまで果たした。また、同じ世界クラブ選手権にマイケル達と同じシカゴウィンディシティの選手として現WFDF会長のロブ・ローチ(Robert Rauch)も参加していた。

マイケルとマッチアップをする本田氏

マイケルとマッチアップをする本田氏。この大会は、日本チームがWFDF主催の大会に初めて出場した記念すべき大会でもある

 

すっかりアルティメットの虜になった本田氏は、大学を4年では卒業せず、5年目に一人でアメリカを旅しながらアルティメットをして回った後、民間企業に就職。就職して1年後には結婚をした。その際、アメリカでお世話になったマイケルを結婚式に招待した。マイケルは本田氏の結婚式に参加した際、「来年の全米選手権に出ないか?」と誘ったが、就職したばかりの本田氏はすぐにその誘いに乗ることはできなかった。しかし、その後数年社会人を続けたのち、1989年の全米選手権に、マイケルも所属するシカゴウィンディシティの選手として出場するために渡米。全米選手権前の3ヶ月程度をアメリカで過ごし、大会を終えると帰国。翌年の夏にももう一度アメリカに渡って、実に2年、アメリカでのプレーを果たした。

さらに、本田氏は個人的なアメリカ挑戦に留まることなく、1990年から6年間、毎年アメリカのトッププレイヤーを日本に招き、日本の選手にアルティメットを教えるJapan Friendship Tour(2年目の名称は「アルティメットコスモス」)を開催した。このイベントはマイケルら全米のトッププレイヤーが14名来日。日本の選手が150名程度参加する規模で行われた。参加費1万円を集めたが、それだけではアメリカ人プレーヤーらの渡航費・宿泊費を賄うことができないため、企業からのスポンサー、募金などを集めて、本田氏の持ち出しも加えるような形で開催されていた。

 

1990年 Japan Friendship Tourの様子

1990年 Japan Friendship Tourの様子。全米のスタープレイヤーが来日し、日本の選手たちにアルティメットを教えた。

 

50周年式典に参加していたJapan Friendship Tour参加プレイヤーたちとの集合写真

50周年式典に参加していたJapan Friendship Tour参加プレイヤーたちとの集合写真

 

このほか、1992年宇都宮で行われた世界選手権の日本代表監督兼選手を務めたり、日本フライングディスク協会内で様々な功績を残したりと、日本のアルティメット界のレジェントというべき本田氏。アメリカでの人脈や日本での功績がある彼だからこそ、今回の式典に招かれることになったのだ。

本田氏の現在の活動と今後の展望

取材の最後に、今後アルティメットやフライングディスクを通じてどんな活動をしたいのか、何を目指しているのかを伺った。すると、少し微笑んだあとに、真面目な顔に戻って、こう語ってくださった。

「自分の中で一番根っこにあるのは『世界平和』。これってものすごい大事だなって。アルティメットピースという活動をしているデーブ・バーカン氏がもしかしたらノーベル平和賞を取るかもしれない。アルティメットとかディスクに関わる誰か、あるいはフライングディスク、アルティメットという競技そのものがノーベル平和賞を取るようなことがあるかもしれない。とにかくそういう風になってほしいなと思うし、ディスクを通じて世界平和を実現できたら、それ以上に素晴らしいことはないなと思う。すごく難しいことだとは思うけどね。」

 

さらに、現在本田氏が力を入れているユース世代への普及活動についても話してくださった。

「今、日本では会員が5000人超えてきて、日本オリンピック委員会、日本スポーツ協会加盟にも加盟していて、って発展してきた。YouTubeや写真などでの発信の効果もあって、知名度も徐々に上がってきた。こうなってくると、今度は中学、高校の子供達に指導したり、彼らに指導する指導者を指導したりということが必要になってくる。そんなときに、ただ上からものを言うんではなくて、自分が現場でこれまでにユースを教えたり、日本代表として世界大会を経験しているからこそ、経験に基づいて『子供達はこういうプレーが得意ですよ。こういうメニューを楽しみますよ』と言えると説得力がある。だからこそ、今はユースの普及活動に力を注ぎたいし、それを多くの人にも協力してもらえるように取り組んでいることが価値になるかなと。」

本田氏は2010年以降、アルティメットを普及するには、ユースへの普及は必須だと考え、活動を続けてきた。当時はまだまだ環境が整っていなかったが、ご縁から東京都東大和市の中学生に教える活動がスタート。最初はアルティメットが学習指導要領に入っていなかったため、選択授業という形で実施した。その後、学習指導要領にも入り、今では複数の中学校へと指導環境が広がっている。この広がりは、最初に本田氏が指導した東大和市の中学校の体育を担当する教員が、転勤先の学校でもアルティメットを教えたいと申し出てくれて、徐々に広がったものだ。東大和のほか、練馬、三鷹、立川、府中、東村山、国分寺へと広がっている。

「中高生が部活を選ぶときに、野球・サッカー・バスケ・アルティメットが比較されるくらいにしたいね。」と本田氏は語る。アルティメット界のレジェンドが行う活動に注目したいし、私自身も自分にできるチャレンジを積み重ねることで、フライングディスクが世界を盛り上げ、平和にすることに関わりたいなと思わせていただいた。

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