【Back Number vol.2(1981年3月7日発行)】
※本記事は、日本フリスビーディスク協会(JFA=日本フライングディスク協会の前身)が1981年3月7日に発行した「FRISBEE DISC TIMES vol.2」(本サイトの前身である協会発行紙)から一部の記事を引用したものです。紙面のスキャンデータ(記事全文)はこちらからご覧いただけます。(データの品質の都合上、一部文章や写真が途切れている場合があることをご了承くださいませ。)
第1回九州フリスビー®ディスクフェスティバルを終えて。
“Flying Communication Sports Club” 藤木 祥司
去る1月4日福岡県久留米市陸上競技場サブトラックに於いて第1回九州フリスビーディスクフェスティバルを開催いたしました。前日までの雪もあがり天気に恵まれ、参加チームも九州だけでなく、代々木FDFの北野、斉藤チーム、WAFTの横田、山田君などが集まり、技術、実力の差を実感させられた大会でしたが、今後の九州のプレイヤーにはいい刺激になったことだと思います。
競技種目は、DDC、MTA、ディスタンス。DDCは、オープンで行ない各クラブ2チームを選抜して、トーナメントで行ないましたが、代々木F・F・WAFT、それにJFAの佐藤、入野チームに圧倒されるばかりで、結局、代々木が、トロフィーを手にしました。ディスタンス、MTAは、九州のプレイヤーだけをポイト式にして、代々木、WAFTの記録は、参考記録としていただきました。
ディスタンスは、熊本FDFの山田英一君が75.3mで第1位、参考記録として、横田君が80.9m、それに、北野君が74.6mとつづきました。MTAは、またも熊本FDFの山田英一君が8.27secで第1位。参考記録として横田君が10.24secと、ディスタンス、MTAとも力の差を見せつけられました。
以上のような結果だったのですけれど、九州にも新しいフリスビーの波が徐々に押し寄せているようで、日曜日などは公園に行くと少しずつですが、フリスビーでプレイしている人が見うけられるようになっています。しかし、まだ子供の遊び道具としての観念があるようで、今回の大会を開くにあたって、競技場の許可を得る際、役所の怠慢な姿勢を納得させるには、骨がおれました。
このような今の状況下におかれるのは、なにも私たちフリスバーだけということではないのですが、よりスポーティな競技としてのフリスビーをとらえたいと思う私たちにとっては、このような状況にはむかうことなく、それを、納得させるような努力が必要になってきそうです。
このようなことをふまえ、まず今回のようなオープンな形式でディスクに興味がある人は誰でも参加できるような大会を開催していきたいと思うし、そのような形式をとって行くことによって、徐々に社会がフリスビーをスポーティなものにとらえて行くのではないでしょうか。
そして、私達は、九州のフリスバーによりいっそう技術、実力をつけるために、3年遅れの情報ではなく新しい情報を取入れていくことに努力をしなければいけないでしょう。又、DDCのルールにしても、半年や1年で細部が、変更されていることもあり、私達、地方の者にとっては、とまどうことばかりです。あるていどの、明確なルールがあればいいのですが、全日本クラスのプレイヤーで話しあったルールを、試合の都合でそうかんたんに変化させていいものでしょうか。
そのようなことを、ある程度まで解決するために、これからは、中央のプレイヤーとも少しづつ話し合って少しでも情報を入れてコミュニケートして行きたいと思うのですが。
フリスビーってなあに?
代々木フリスビーファミリー 北野 真一
「フリスビーとは、一体何なのだろう。」
僕は、国分寺でのJFA東京支部の運営会議から、駒沢公園へ向かう車の中で何度も咳いた。「フリスビーとは、WHAM-O社の製造するディスクの登録商標であり、本当はフライングディスクと呼ばなければならないが、一般的認識として、どういうディスクであれフリスビーとしか知られていない。」といった、JFA本部の佐藤君の嘆きにも似た言葉と相まって、WHAM-O社製のディスクしか使用してはならなかったローズボウルで、何人ものアメリカ選手たちがいやみたっぷりに叫んでいた、「WHAM-O is BEST!」という言葉が頭の中で回っていた。確かに今のところ、WHAM-O社製のいわゆるフリスビーに完全に勝るディスクの出現はないと見ていいわけなのだが、フリスビーがスポーツの一つのジャンルとして確立されつつある現在、それがレジスターマーク入りのスポーツになるなどと考えたくもないところだし、フリスビーが登録商標の枠を過えて、純粋なスポーツとして確立される事を期待してよいものかどうか、などと思いをめぐらせていたのだった。
車を下りて、少し肌寒い駒沢公園を歩いて行くと、代々木の仲間達を感じさせてくれる様な、フリスビーしかない!という駒沢フライングディスクカンパニーの連中に会うことができた。
彼らは人一倍研究熱心であったし、何よりフリスビーに夢中になっている輝いた目をしていた。
飛んできたディスクを初めてネイルディレイでとれたときのあの狂喜。彼らはまさにその狂喜の目をしていた。実にうまい。皆が皆うまい、彼らのプレイを見ていて、”フリスビーとは、プレーヤを狂喜させるもの以外何でもない。”僕はこのことを長い間忘れてしまっていた様な気がして恥ずかしくなりさえした。
その昔、僕にとって、バックスキャッチですら至難の技であったし、ジャンピングバックスキャッチでも決めようものならその日は一日中、僕はすごい!などと喜んでいたし、代々木フリスビーファミリーにはいりたての頃などは、山森君たちのフリースタイルは、どう考えても神技としか思えず、毎日、陽がどっぷり沈むまで彼らの様に無心にフリスビーを楽しんでいたものだったのだ。
そして、これからどんな目をした、どんなプレーヤーに会えるだろうかなどと考えながら、今も夢中でフリスビーを楽しんでいる。