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プロフェッショナルに聞いた「私の歩み」 vol.1 岡田真人

フライングディスク界のレジェンドへのインタビュー企画。
第1回は、アルティメットの選手・監督として長く国内外で活躍する岡田真人さんに「私の歩み」をお伺いしました。

(インタビュー:西中 良太、小峯 萌花  /  執筆:西中 良太)

 

ヒストリー 〜サッカーからアルティメットへ〜

―記念すべき新企画の第1回、本日はお時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いします!
それではまず、これまでの競技歴を教えてください。

アルティメットを始めたのは、1996年の明治大学への入学時です。大学卒業後は、クラブチームのボンバーズを経て、2018年までNomadic Tribeでプレーしました。

国際大会に関しては、大学4年次にスコットランドで開催された世界アルティメットクラブチーム選手権(以降 世界クラブ選手権)を皮切りに、日本代表も含めて計12回参加しました。

選手としての引退後は、日本代表本部で活動しており、監督を務めています。

 

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2019年 アジア・オセアニア アルティメット&ガッツ選手権大会にて。メン部門の監督として、チームを優勝に導いた。

 

―大学入学までは別のスポーツをされていたのでしょうか?

高校までは、サッカー一筋でした。目標としていた全国高校サッカー選手権大会には出場できたものの初戦で敗退。
自分自身のレベルとしても、強豪である明治大学サッカー部で活躍できる域には至っていませんでした。

ただ、高い目標に向かってチームで取り組む醍醐味は忘れられず、大学ではサッカー以外のスポーツでそれを味わいたいと思うようになりました。

 

―そのなかで、なぜアルティメットを選んだのですか?

きっかけは入学後の新歓時期に受け取った無数のサークルのチラシのなかに、アルティメットの1枚が混ざっていたこと。キャンパスでの勧誘では「君も代表選手になれる」と言われたことが印象に残っていました。帰宅してから遠く離れる兄と電話で話し、兄の友人である中京大学の大西さんがアルティメットをしているということで、新入生向けの練習会に参加することを勧められました。

正直なところ、初回の練習会では競技としての面白さは感じませんでした。「フリスビーを投げるだけで何が楽しいのだろう?」という感じです。また、新入生の勧誘ということで「良いスローだね!」「良い走りだね!」と過剰なまでに褒められることに気持ち悪さを感じ、若干引いてしまったことを思い出します。あまり良い第一印象ではなかったですね(笑)

それでも結局アルティメットを始めたのは、大学の先輩、杉山亮平さんや石井克磨さんに魅力を感じたからでしょうか。
目を輝かせてプレーし、アルティメットを語る姿を見て、先輩・同期で楽しむ雰囲気にいつの間にかのみ込まれ、ここで頑張ってみようと思うようになりました。

 

トップレベルを目指した経緯 ~レベルが上がるほどに深まる向上心~

―サッカーでのご経験もあり、初めから高い目標を持ってアルティメットに取り組まれたのだろうと思います。そのなかでもトップレベルでの活躍を目指すようになったのは、いつ頃だったのでしょうか?

大学3〜4年生の頃ですね。

落選とはなったのですが、大学3年生の時に当時日本体育大学で同学年の山本泰史さんと一緒に、初めてA代表の選考に参加しました。また、大学4年生の時に明治大学で出場した世界クラブ選手権で、初めて国際大会を経験しました。

それまでと異なるステージに身を置いたなかで、自分自身のプレーで通用するものと通用しないものとがあることに気付き、「まだまだ成長できる」「もっと上を目指したい」と思うようになりました。

 

―さらっと「大学3年生でのA代表選考」、「大学4年生での世界クラブ選手権」と仰いましたが、これはすごいことですよね。アルティメットを始めて数年で、既にかなり高い競技レベルに到達されていたのだと思いますが、何か秘訣はありますか?

明治大学は強豪で、「勝つのが当たり前」というチームでした。それもあってか、大学生で代表選考に招集されたことも、世界クラブ選手権に出場したことも、特別であるという意識はなかったですね。

ただ、今振り返って考えてみると、とにかく練習をしていました。土日は朝から夕方まで練習でしたし、量だけではなく質にもこだわっていました。例えば、練習の最後にキャッチ&スローの練習をするのですが、50本連続で成功しなければやり直し。スローワーはしっかりと足を踏み込んで投げ、レシーバーは全力疾走でディスクに向かう。日が暮れてしまうこともままありましたが、辛いと感じなかったのは同じ志を持つ仲間の存在が大きかったのだと思います。

 

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明治大学時代の1枚。苦楽を共にしたチームメイトとは、今も親交が深い

 

トップレベルとして関わる上での困難・挫折 ~32歳での大怪我、No.1への憧れを胸に復帰~

―トップレベルの選手として活躍されるなかで、困難・挫折となる経験はありましたか?

左膝の怪我ですね。

それまであまり大きな怪我は経験していなかったのですが、32歳の時に前十字靭帯を断裂しました。入院・リハビリと長期間のブランクを要する手術は避け、保存療法を選んだのですが、100%のダッシュができなくなるなどプレーへの影響は大きかったです。壁にぶつかった経験でした。

 

―前十字靭帯断裂と言うと、選手生命を左右しかねない大怪我ですよね。その後も日本代表・クラブチーム双方で世界を舞台に活躍されていますが、怪我を境に戦略的にプレースタイルは変えたのでしょうか?

大きく変えざるを得ませんでした。

全力で走ることができなくなり、強みに特化したプレースタイルにシフトしました。具体的には大きな身体を活かしたディフェンスを自身の生きる道と捉え、そこで誰にも負けないことを心掛けるようになりました。怪我の前まではオフェンス・ディフェンスともに主力としてプレーしていたので、役回りが変わることは、容易には受け入れ難かったのですが。

 

―大怪我を乗り越えて、プレースタイルを変えてまで復帰された背景には、どのようなモチベーションがあったのでしょうか?

No.1になることへの憧れですね。

大学時代は日本体育大学、社会人となってからは文化シヤッター Buzz Bulletsに勝てず、一度も日本一になったことがありませんでした。「一度も日本一、No1になっていないのに辞めるのは嫌だ」という気持ちを常に持ち続けていました。

2年半後に自国開催での世界大会(2012年 世界アルティメット&ガッツ選手権大会)を控えており、その舞台に立つことも大きなモチベーションでした。

 

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長いリハビリを経て復活を遂げたが、膝のサポーターが欠かせない存在となった。

 

トップレベルとして関わるフライングディスクの魅力 ~1対1を極め、その先へ~

―岡田さんにとって、トップレベルとして関わるアルティメットの魅力はどのようなものでしょうか?

一番魅力を感じているのは、1対1の勝負です。

駆け引きの末に自分の読み通りに相手が動き、そこにディスクが来てカットする。その後も走り続けて得点に絡み、試合のターニングポイントを作る。これに勝る喜びはなかなかありません。

また、日本国内、海外には自分より格段に上手い選手がたくさんいます。つまり、プレーで勝負し勝てない悔しさがまた次への挑戦になる、ということです。日本代表では吉川洋平さんにはたくさんの勝負力、戦術眼を教わり、この魅力を数多く感じさせてもらいました。

また、その勝負を支えていただくトレーナーとしては、自身初出場となった2001年のWorld Gamesで、橘広造先生にお世話になりました。トレーナーによる技術サポートでパフォーマンスを上げる基礎を築いていただき、感謝しています。治療いただくことで自分のパフォーマンスが上がったことは、勝負の世界では大きな力になりました。

 

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2001年 World Gamesにて。世界トップレベルの選手との1対1の勝負で味わった興奮は、長く競技を続ける原動力となった。

 

―日本から世界、更にそのなかでもトップレベルへと、ステージを上げていった際に、1対1の勝負はどのように変わりましたか?

やはり、駆け引きが高度化しましたね。

強いチームとの試合になれば、自分が相手の動きを予測するのと同じように、当然相手も自分の動きを予想してきます。先の先を読む。相手の嫌がることを考える。常に心理戦ですね。

また、1対1の勝負を極めていくと、他の選手の1対1にも目が届くようになります。自分自身のマッチアップ相手は視野に入れながら、別の1対1にも参加して2対1の局面を作る。味方と連携して2対2、3対3の勝負に持ち込む。このように、個人での1対1の勝負を前提としつつ、チームとしてのディフェンスに発展させることもトップレベルならではの魅力と言えるかもしれません。

まずは自分のマッチアップ相手に勝つ。その上で視野を広げ、周囲と連携すること。これは自分自身が選手として大事にしてきたことでもありますし、監督として選手に求めていることでもあります。

 

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2018年 世界クラブ選手権にて。DFのスペシャリストとして、チーム歴代最高位の6位入賞に大きく貢献した。

 

―1対1の勝負という観点で、アルティメットとサッカーとは似ていますでしょうか?

あまり似ていないですね(笑)
アルティメットの方が、より1対1の勝負が重要であるように感じています。

サッカーにももちろん1対1の勝負はありますが、アルティメットと比較すると相手との距離を取り、スペースを守る局面が多いです。コートのサイズとディスクのスピードの関係で、相手と接近していないとパスを通されるので、アルティメットでは1対1の局面が多くなるのかもしれませんね。

 

―高い目標に対し、チームでその達成に向けて取り組みたいという想いがアルティメットを始めた理由とお伺いしました。その観点で、トップレベルならではのアルティメットの魅力はありますでしょうか?

発展途上の競技で、勝つための方法論が定まっていないことだと思います。

サッカーでは戦略・戦術が体系化されており、それを遂行するためのスキル、それを身につけるための練習まで落とし込まれています。競技として成熟しているのは間違いないですが、やるべきことがとにかく多いです。

一方でアルティメットでは、例えばスローが上手ければ勝てるわけではないけど、スローが下手だからといって負けるわけでもない。「この練習をしていれば強くなれる、世界で勝てる」という答えがまだまだないということです。

方法論が未確立であることはもどかしく、それでよいのか?という迷いもあります。しかし、自由な発想のもとチームで議論を重ね、進むべき道を定めた上で、それが合っているかはわからないなかでも、正解と信じて突き進むプロセスはアルティメットの大きな魅力です。日本代表も、自らの強みを定義し、それに自信を持ってまとまれるチームでありたいと考えています。

 

今後の目標 ~監督として恩返しを!~

―最後に、今後の目標をお聞かせください。

選手としては一区切りをつけて、今は日本代表本部での活動が中心です。これまで沢山の方々に育て、支えてもらって選手として活動してきたので、恩返しと思って監督の任務を果たしていきたいです。

また、日本代表になることが全てではありませんが、憧れ・目標の的となる日本代表でありたいと思っています。少しでも興味を持ってくださる方が「日本代表になりたい」「世界で活躍したい」と夢を持ち続けられるよう、日本代表本部としてできることに取り組んでいきますので、チャレンジをお待ちしています!

 

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Profile

岡田真人(おかだ まさと)。1977年、京都府出身。
明治大学入学を機にアルティメットを始め、卒業後はボンバーズ、Nomadic Tribeでプレー。
2000年の初選出以降、20年弱に渡り日本代表でも活躍。2016年の世界アルティメット&ガッツ選手権大会で監督としてのキャリアをスタートさせ、来年米国で開催予定のWorld Gamesの日本代表監督にも内定している。

【所属チーム】
・明治大学 FREE FLYERS(1996年~1999年)
・ボンバーズ(2000年~2002年)
・Nomadic Tribe(2002年~2018年)

【日本代表歴】
選手として
・世界アルティメット&ガッツ選手権大会 オープン/メン部門(2000年、2004年、2008年)
・世界アルティメット&ガッツ選手権大会 マスターオープン/メン部門(2012年、2016年)
・World Games(2001年、2005年)

監督として
・世界アルティメット&ガッツ選手権大会 マスターメン部門(2016年 ※選手兼任)
・世界アルティメット&ガッツ選手権大会 メン部門(2020年 ※開催中止)
・アジア・オセアニア アルティメット&ガッツ選手権大会 メン部門(2019年)
・World Games(2022年)

 

 

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