Satoru Ishii

アルティメットで世界に挑戦して得た「掛けがえのない経験」 石井哲氏

石井哲さんは、日本・カナダ・アメリカそれぞれの強豪チームで活躍した実績を持つ、数少ない日本人の一人だ。昨年全日本大学選手権大会優勝を果たした早稲田大学ソニックスのOBであり、卒業後は文化シヤッターBuzz Bullets(以下、バズバレッツ)で2度の日本一を経験。その後、カナダへと活動拠点を移し、北米選手権優勝を経験。選手としても監督としても日本代表を経験しているほか、アメリカでプロチームやクラブチームのコーチも経験している。

しかし、石井さんをよく知る方曰く、「日本にいた頃の彼は、お世辞にもアルティメットが上手いプレーヤーではなかったし、海外に挑戦する前に日本代表の経験もない選手だった」のだという。そんな石井さんがどのように全日本選手権優勝や北米選手権優勝を勝ち取ってきたのだろうか。

「世界の舞台で挑戦したい」
「もっともっとアルティメットが上手くなりたい」

そんな想いを持つ方にこそぜひ、石井さんの挑戦を知ってもらえたらと思う。

 

Profile

Vampire Ultimate(アメリカ サンフランシスコ) 選手兼コーチ
株式会社クラブジュニア(USA担当)
「Ultimate Challenger’s Diary」運営

石井 哲(通称:Sat)
Satoru Ishii

Satoru Ishii

1976年12月8日生まれ
早稲田大学ソニックス出身
※石井さんの過去の実績は本記事末尾に記載。

インタビューに応じてくださる石井さん

サンフランシスコにあるご自宅で取材に応じてくださった。

「つらく過酷だった」日本一までの道のり

アルティメットとの出会いは大学入学時。中学まで卓球部、高校でテニス部だった石井さんは、早稲田大学に入学した。
「大学でもスポーツを続けたいと思い、その中でも日本一になれる競技を探して、その中でアルティメットを見つけたんだ。あまり体が大きくない自分にとって、身体接触がないというのは一つの魅力だった。また、自分の兄は大学でラクロスをやっていて、その兄もアルティメットは悪くないと言ってくれた。兄の助言もあってアルティメット部への入部を決めたんだ。」

しかし、当時の早稲田大学ソニックスは創部4年目。お世辞にも強豪とは言えなかったという。石井さんは入部後、チームメイトと衝突しながらもチームを強化。石井さんが大学4年になった年には、チームを大学全日本7位になるまで成長させた。

とはいえ、元々は日本一を目指して初めたアルティメット。全日本7位では満足せず、「もっと上を目指したい」と考えた石井さん。そこで石井さんは、日本唯一の実業団チームとして全日本選手権で上位に名を連ねていたバズバレッツに興味を持ち、「文化シヤッター」への入社を志した。無事に内定を獲得し、同時にバズバレッツへ入団。その年、石井さんの同期として入団したのが、吉川洋平選手、宮部英俊選手ら4名の日本体育大学出身者だった。前年、日本体育大学は全日本選手権で社会人チームを退けて優勝。彼らはその主力メンバー。入団して彼らとチームメイトになった石井さんは「力の差を痛感した」と語る。

バズバレッツ時代の石井さん

バズバレッツ時代の石井さん(写真中央左 ディスクを投げているのが石井さん)

 

石井さんが入団してから最初の2年で、バズバレッツは全日本選手権で連覇。しかし石井さんはこの2年の間に「本当につらく過酷な経験をしたよ」と語る。「特に1年目はチームの中で果たせる役割が多くなく、練習についていくだけでも必死だった。早稲田でチームを引っ張ってきたという自負があったが、通用しなかった。それに対して、日本体育大学出身の同期たちは早くから主力として活躍していた。彼らは能力が高いことはもちろん、一つ一つのプレーに目的を持ち、常に意味があるプレーをしていた。一方で自分は思いつきでプレーをしていたんだ。2年目になってようやく、自分の役割を果たすことには自信を持てるようになったけど、この2年の間には、精神的に落ち込んでイップス状態(精神的原因などでスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りの動きや意識が出来なくなる症状のこと)になった時期もあった。2年目は、下手くそなりにもディフェンスメンバーとしてチームに貢献することができ、全日本選手権優勝を果たせたので、自分のプレーヤー人生の中でも最も嬉しかった経験の一つになっている。でも同時に、バズバレッツで苦しんだ時間は、今までのプレーヤー人生の中でも最もつらく過酷だったように感じるよ」

1999年 バズバレッツ 全日本選手権連覇

1999年 バズバレッツが全日本選手権で初優勝を果たした際の写真

 

海外挑戦の末に掴んだ北米選手権制覇

アルティメットを始めた当初の目標であった「日本一」に2度輝いた石井さんは、当時から世界的にレベルが高かった北米でのプレーに想いを馳せるようになったという。「バズバレッツで2年やって、自分の役割だけなら果たすことができると思った。だったら、もっと上のレベルで挑戦してもいいかなって思ったんだ。また、社会人になる前から海外に行きたいという思いがあったんだ。」アメリカとカナダは現在でもアルティメット強豪国であり、当時からその強さは圧倒的。石井さんは「北米でプレーしたい」という想いを現実にするべく、会社を辞め、北米へ渡る決意をした。

北米といっても範囲が広く、候補となる都市はいくつかあったというが、その中でも石井さんが選んだのはカナダ バンクーバーだった。

カナダは、1年間のワーキングホリデービザが取得できる。ワーキングホリデービザで滞在することで、現地で働くこともできる。一方で、アメリカはワーキングホリデービザの制度がなく、長期滞在するためには学費を払って学生としてビザを取得するか、就労ビザを取得することが必要だ。しかし、学生ビザでは基本的に現地で働くことが許されておらず、一方の就労ビザは取得するのが非常に困難かつ、費用も高額だ。カナダとアメリカを比較すると、カナダの方が長期滞在と現地就労が比較的容易で、滞在にかかる費用もアメリカより安い。そのカナダの中でも、バンクーバーは強豪Vancouver Furious George(以下、フュリアスジョージ)がある。当時、世界選手権でバズバレッツが10位前後だったのに対し、フュリアスジョージは3位。また、仮にフュリアスジョージへの入団が叶わなかったとしても、当時のバンクーバーには100チームほどで構成されるリーグ戦が存在していたという。このことを知った石井さんは、バンクーバーでの滞在を決めたのだ。

バンクーバーに渡った石井さんは、見事トライアウトに合格し、フュリアスジョージに所属。そしてその後、このチームで2年間プレーすることになる。チームは1年目に北米選手権3位。2年目に念願の北米選手権制覇を果たした。その後、帰国して奥様と結婚。奥様の都合で、ご夫婦でアメリカに渡ることになり、その後もアメリカを拠点にアルティメットを続けている。

フュリアスジョージ時代の石井さん

フュリアスジョージ時代の石井さん(写真右側 スローワーに対してディフェンスしているのが石井さん)

フュリアスジョージで掴んだ、人生の中で掛けがえのない2つのタイトル

石井さんのこれまでのプレーヤー人生で、忘れることができないのがフュリアスジョージで掴んだ2つのタイトルだという。1つは先の北米選手権制覇だ。「フュリアスジョージで2年のシーズン過ごし、1年目は北米選手権3位。満を辞して挑んだ翌年に、チームはついに念願の北米選手権優勝を果たしたんだ。チームの中で満足に試合に出続けられたわけではなかったけれど、シーズンを通して自分がチームに対して貢献できることを全力で果たせたと思っているよ。フュリアスジョージでの北米選手権優勝はプレーヤー人生で大きなタイトルの一つだね。」と石井さんは語る。

2001年 フュリアスジョージ 北米選手権優勝

2001年 フュリアスジョージのメンバーとして北米選手権優勝を果たした

 

そしてもう一つのタイトルが、北米選手権制覇翌年のDREAM CUPだという。「もう一つは翌年のDREAM CUP。北米No1チームとしてドリームカップに招待されたフュリアスジョージ。その一員として大会に出場したんだ。チームは難なく決勝まで駒を進め、決勝では古巣バズバレッツと対戦したんだ。」

石井さんにとっては思い入れがある両チームの対戦。石井さんはこう続けた。「日本でも随一の規模を誇る大会DREAM CUP。その大会の決勝。日本にいる家族が観戦してくれていて、自分にとって最高の環境が整ったんだ。しかも、自分自身がプレーヤーとしてフィールドに立つことができた。最終的にフュリアスジョージは勝利し、優勝。チームの勝利にフィールド上で貢献することができた実感もあった。この試合は北米選手権優勝と並んで、自分の人生の中でも掛けがえのない想い出になっているよ。」

 

今後について

現在、アメリカ サンフランシスコに住む石井さんは、現地のミックスチームVampire Ultimate(バンパイアアルティメット)の選手兼コーチを務める。2016〜18年には、北米のプロアルティメットリーグAUDLのLos Angeles Aviators(ロサンゼルスアビエイターズ )でコーチを務めたほか、現在でも現地のチームから指導者としてのオファーがあるという。北米のアルティメットコミュニティにおける石井さんの知名度は高く、多くのアルティメット関係者から慕われる存在だ。

バンパイアアルティメットでの石井さん

サンフランシスコのミックス部門クラブチーム バンパイアアルティメットでは選手兼コーチを務める

 

そんな石井さんは、今後についてこう語る。「アルティメットはこれからも続けていきたいし、個人的には世界一になってみたいと思っているよ。日本と北米でNo.1になったけど、世界大会ではフュリアスジョージで出場した際のクラブ選手権4位、2012年にマスターメン部門日本代表として出場した際の3位というのが最高で、世界一には届かなかった。これからのプレーヤー人生で、世界一に輝けたら最高だと思う。」

さらに石井さんは、プレイヤー以外でのアルティメットへの関わり方についても語ってくれた。「ありがたいことに、アメリカでもアルティメット関係者から声をかけてもらえるなど、多くの仲間に恵まれている。また、Club Jr.のユニフォームオーダーやグローブを代理店として扱わせていただいていて、アメリカの選手たちに利用してもらっている。今後もアルティメットに関わる活動で、必要としてもらえるように頑張っていきたいね。また、日本の人たちにもいずれ、自分が北米で経験したことを還元できたらいいな。今でもUltimate Challengerという形でブログやSNSで情報を発信している。今後も情報発信は続けていきたいな。」

 

編集後記

私自身、現在アメリカでアルティメットをプレーさせてもらっているが、アメリカでプレーするにあたって、石井さんにたくさんのご協力をいただいた。現地の生活環境に関する情報やアルティメット関係者との連絡についてアドバイスをいただいたほか、実際に現地で石井さんのご自宅に宿泊させていただいたり、石井さんが主催するイベントに参加させていただいたり、一緒に現地のチームのトライアウトに参加させていただいたりと、恐れ多いほど甘えさせていただいている。

今回、改めて石井さんに話を伺って感じたことは、「行動しなければ、結果はついてこない」ということだ。もちろん、行動を起こしたからといって成功するとは限らない。しかし、行動を起こさなければ成功することはないし、石井さんが掛けがえのない経験を得たのは、他でもなく行動を起こしたからだと感じた。この記事を読んでいるあなたが、何かに挑戦することに少しでも興味を持っているならば、その挑戦のために今できることを考え、少しでも足を踏み出してみてほしい。

もし、海外のアルティメット事情などに興味がある方がいらっしゃったら、Ultimate Challengerこと石井さんが発信する情報はとても参考になる。私自身、アルティメットを始めてからUltimete Challengerが発信する情報からたくさんのことを学ばせていただいた。ぜひ、一度アクセスしてみてはどうだろうか。

Ultimate Challenger SNSアカウント

Twitter

Facebook

 

石井さんの経歴

早稲田大学ソニックス出身
1999年 全日本選手権優勝(バズバレッツ)
2000年 全日本選手権優勝(バズバレッツ)
2002年 世界クラブ選手権4位(フュリアスジョージ)
2002年 北米クラブ選手権優勝(フュリアスジョージ)
2011年 USA ULTIAMTEクラブ選手権・マスターズ部門準優勝(ビヨンドルズ)
2012年 世界アルティメット&ガッツ選手権・オープンマスターズ部門3位(日本代表)
2018年 USA ULTIAMTEマスターズ選手権・グランドマスターズ部門優勝(エドルズ)

関連記事一覧